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  「殿堂入り」した方々  

2004年度の殿堂入りした方々
  写真:フリッツ・シュミッツフリッツ・シュミッツ
 
 
  略歴
 1933年生まれ。アリゾナ州立大学卒業後の1956年に来日し、ミヤコトラベルでの英語教師や日野自動車での社内報制作に携わる。ミヤコトラベルが初の世界一周旅行を催行した際には添乗員の補佐役として旅行に同行。また当時、日野自動車が国際見本市に出展した新型車の車名「コンテッサ」の命名にもかかわる。一旦帰国してミシガン州立大学で東洋学の学位を取得。その後再来日し、NHKの海外向け放送「ラジオジャパン」アナウンサーを経て1964年にUSTTAの前身であるUSTSアジア・太平洋地区支局に入局。1969年にUSTS日本・アジア地区支局長に就任。以降、20年以上にわたり支局長を務め1993年に引退。
 
 
  旅行・観光産業への貢献
写真:フリッツ・シュミッツ 日本で初めての外国政府観光局として1963年に設立されたUSTSアジア・太平洋地区支局で、開設の翌年からマーティン・プレイ支局長を補佐して活躍。外国政府観光局としてUSTSの後に続いたインド政府観光局や英国政府観光庁、ソ連政府観光局などとも協力して、海外旅行の魅力を日本に紹介することに努める。こうした協力関係の芽が、後に在日外国政府観光協会(FGTO)や在日外国政府観光局代表協議会(ANTOR)にもつながっていくことにもなる。
 1967年には旅行会社に対してアメリカ旅行の魅力を紹介する2泊3日のセミナー「USA100」を実施。当時の日本の海外旅行取り扱い旅行会社のトップ100人を熱海に招き、泊りがけでセミナーを行うという当時としては画期的な催しの実現だった。
 局長就任後は全米最大の旅行産業見本市である「POW WOW」の日本における認知度を向上させ同見本市の日本の旅行業界での定着を図る。また日本人旅行者が多い米国西海岸を主対象とする「VUSAマート」には第1回開催時からかかわり、日米双方にとっての有意義な催しとするべく努力を続けた。

写真:フリッツ・シュミッツ テレビ番組を利用したデスティネーション・プロモーションにも積極的に取り組み、1977年にスタートした「アメリカ横断ウルトラクイズ」(日本テレビ系列)にはUSTSが企画段階から参画し、テレビ局・航空会社・観光局の三位一体によるプロジェクトの可能性を切り拓いた。90年まで14年間続いた同番組により、アメリカの160ヵ所以上が取り上げられ、80年代におけるアメリカへの旅行者の底辺拡大にも影響したことは間違いない。
 1989年のJATAコングレスでは、マーケティング・プレゼンテーションの講師役を務め
る。当時、日本人海外旅行者の急速な増加により、世界各国から旅行者の送り出し国として日本が注目を集めた反面、日本人旅行者の海外での行状に関して“黄禍論”までささやかれていた。そうした中で、世界中から集まった旅行関係者に対して日本人旅行者の特性と、その重要性を説き、同プレゼンテーションは、日本人旅行者に対する正しい理解を促すことにも貢献した。

 

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