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  「殿堂入り」した方々  

2004年度の殿堂入りした方々
  写真:松尾 静磨松尾 静磨
 
 
  略歴
 1903年(明治36年)生まれ。九州帝国大学卒業後、東京瓦斯電気工業入社。1930年(昭和5年)朝鮮総督府航空官、蔚山飛行場長、大邱飛行場長、大阪飛行場長、航空局第二部補給課長、同局乗員部第一養成課長などを経て、1945年に終戦により航空局より改編された航空保安部の部長に就任。1949年航空保安庁長官就任。さらに保安庁が航空庁に昇格するのに伴い1950年航空庁長官。1951年の日本航空創立と同時に専務取締役に就任。1957年取締役副社長、61年取締役社長に就任。1961年航空審議会委員、62年全日本空輸取締役、63年全日本航空事業連合会会長、63年日本経営者団体連盟常任理事、66年日本国内航空会長。1971年には東亜国内航空取締役相談役に就任するとともに、日本航空では取締役会長に就任。1972年逝去。
 1963年藍綬褒章受章。1973年勲一等瑞宝章受章

 
 
  旅行・観光産業への貢献
写真:松尾 静磨 奇しくもライト兄弟が初飛行を成功させた年に生まれ、戦前は各地の飛行場長として我が国の初期における航空行政の整備に貢献。戦後は初代の航空保安部長、初代の航空庁長官として日本の民間航空再開の道を切り開く。民間航空の再開に備え、航空技術者の温存を図り、航空保安施設の整備を進め、海外航空事情の調査研究を行うなど、その後の民間航空発展の基礎は松尾航空庁長官時代に築かれたといえる。またGHQの「国内航空運送の運営を外国航空会社1社のみに許可する」との方針に対して、航空庁長官として自主運航権を強硬に主張し、1953年の自主運航権の回復への布石を打った。

写真:松尾 静磨 日本航空では外国人操縦士に依存していた国内線運航を日本人操縦士に切り替えるなど国内航空輸送を着々と整備する一方で、国際線の開発にも注力。プロペラ機に代わるジェット機の導入を進め国内路線・国際路線の拡充を進める。1954年には初の海外路線として東京/ホノルル/サンフランシスコ線を運航開始。その後、8年ほどの間に香港線、バンコク線、シンガポール線、ロサンゼルス線、北廻り欧州線、南廻り欧州線などを次々と就航する。また正式国交樹立前の韓国との間での民間航空会社間の商務協定締結に尽力。さらにニューヨーク経由世界一周路線の実現のための日米航空交渉や、シベリア上空開放を課題とする日ソ航空交渉では、数年間にわたる長丁場の交渉のすえ目的を達成した。
 また最もエネルギーを注いだのが絶対安全運航体制の確立で、社内に対し常に安全運航の重要性を説き続けた。毎朝、前日のフライトの運航状況を自ら念入りにチェックし、少しでも整備や運航体制に疑問を感じると、即座に担当部長を呼び改善を命じた。経営トップとして安全運航についての厳しく妥協を許さない姿勢を示すだけでなく、1952年には日本航空整備株式会社を設立し、63年に同社を日本航空に合併することにより新技術の導入と技術水準の向上を図った。こうした努力の結果、日本航空は長年にわたり無事故を続け、世界的にも安全な航空会社の評価を得るに至った。

 

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