Tour1 of 第2回日本国際ツーリズム殿堂

 2008年度顕彰者の足跡   利光松男


 危機に直面した日航を救う

 旅行・航空業界ではつとに知られた利光松男の名が繁く一般メディアに登場したのは、1985年の御巣鷹山事故の後、危機に直面した日本航空の舵取り役、新経営陣の一人としてだ。事故により信用失墜した日本航空を立て直し、民営化への準備も進めなければならないという難しい局面で経営に当たったのは、経済界から起用された伊藤淳二副会長(後に会長)、総務庁出身の山地進社長、そして日本航空生え抜きの利光副社長だった。「トロイカ体制」と呼ばれたこの3人のタッグによる舵取りで日本航空は危機を脱し、民営化を果たす。このトロイカ体制において利光は、社内を掌握し現場主義を徹底することで、事故により意気阻喪していた社内に活力を呼び戻し、日航再生に大きな役割を果たした。
 副社長就任までには紆余曲折があった。82年に日本航空の営業本部長に就任した利光は、念願の民営化に向けて、既存の規制に縛られない発想で次々と積極的な施策を打ち出したが、これが社内外に軋轢を生む。85年6月には、常務取締役を最後に日本航空の本体を去り、日航商事(現JALUX)の社長に転じていた。御巣鷹山事故が起きたのはそのわずか1カ月半後で、日本航空経営陣の刷新へと事態は急速に動いていく。
 当時の山下徳夫運輸大臣に相談を受けた日航元専務の亀田重雄が、この未曾有の危機に社内をまとめ再生へと踏み出すための経営トップには利光しかいないと推薦。利光は山下大臣直々の要請にも社長就任は固辞し、現場に密着して再生の指揮を取ることができる「副社長ならば」と、経営陣入りを承諾したという。
 1951年の日本航空入社以来、営業畑を中心に活躍し、“親方日の丸”時代には軽んじられがちだった営業部門に光を当て、部門を掌握していた利光が経営陣に名を連ねた意味は大きい。事故による信頼失墜で営業面でも大打撃を受けていた日航を立て直せたのは、利光の存在あってこそといえる。

 安全と効率化の両立果たす

 90年に社長に就任してからは、バブル崩壊の後始末に追われた。在任中の5年間は人員削減に取り組んだり、契約制客室乗務員制度を導入したり、不採算路線からの撤退など、日本航空の構造改革を主導した。人員削減や雇用形態の変更は、労働組合との交渉抜きには実現できない。一筋縄で交渉が成立したわけではない。利光が心を痛める場面も少なからずあったようだ。それでも利光の人物と人柄が、最終的には相手の妥協を引き出すことにつながった。
 当時、利光の意を受けて交渉に当たった者は「松ちゃんじゃあ相手が悪い」「利光さんにああ言われちゃなぁ」といった、労組幹部の呟きを耳にしている。暗くなりがちなリストラ策も、利光が手がけることで不思議と暗さが感じられない。当時を知る日本航空の元幹部は「明るいリストラといったらおかしな表現だが、何ともいえない陽性を感じさせる利光さんの存在は、会社の雰囲気が決定的に暗くなるのを防いでいた」と振り返る。
 利光が心血を注いだ構造改革は、95年に社長職を退いてから成果を上げ始め、90年代半ば以降に日本航空の業績は急回復する。それでも本人は92年3月期の赤字転落や、その後の経営不振に責任を感じていたという。そんなとき周囲は、利光が副社長・社長在任の10年間に重大事故がなかったことを挙げ、構造改革を進めながら安全面も両立できたことを経営者としてもっと誇るべきだと励ましたという。利光は尊敬する日本航空元社長・松尾静麿の「引き返す勇気を持て」の言葉を常に胸に刻んでいたといい、「黒字で事故を起こすくらいなら、赤字で無事故を選ぶ。赤字は翌年挽回できるが、航空会社にとって信用失墜は許されない」と家族に胸中を明かしたこともある。

 アイデア生み出す天賦の才

 利光を天性のアイデアマンだったと評する声は多い。60年代の販売促進課長時代には、「ファミリー・サービス」を開始した。日本企業の海外駐在員が赴任地に家族を呼び寄せる際に提供したのが、このサービスだった。フライトの予約から空港での手続き、到着空港での出迎えまでを一括してサービス提供する。今でこそ同種のサービスを打ち出す航空会社はあるが、早くも60年代にこのサービスに着手した利光の慧眼が光る。
 ある営業目標の金額設定について、こんなエピソードもある。当初の目標金額は1400億円とされていたのだが、利光の指示で急きょ1420億円に改められた。いぶかしがる周囲に対し利光は「イ・シ・ニ(142)かじりついても目標を達成しよう」とハッパをかけた。どこからか、それらしい石を見つけてきて、お清めの儀式を行ったうえで各支店にも送り、「石にかじりついてでも」の精神を忘れないよう工夫した。そんなダジャレのような思いつきを目標達成の原動力に変えて見せたのが、単なるアイデアマンに終わらなかった利光の真骨頂でもある。
 部下のアイデアを引き出すのもうまかった。利光の引きによって日の目を見ることになったアイデアは、「有名人と行く海外ツアー」といった新商品から、ホノルルマラソンの仕掛け、パラオ諸島の開発事業、リゾートブランド「リゾッチャ」の立ち上げまで、枚挙にいとまがない。

 ボトムアップを経営哲学に

 アイデアが生まれる背景には、徹底した現場重視があった。現場主義は利光が一貫して持ち続けた信念だったと、部下として働いた者は一様に指摘する。どこへでも出かけていって現場のスタッフと車座になり、膝つき合わせて議論を交わし、意見を吸い上げて経営に生かすのが利光流のボトムアップ経営だ。
 経営者として後を託した近藤晃や兼子勲にも常に現場の重要性を説き、「少しでも時間があったら、夜の整備工場でも空港支店でも訪れて現場を見ろ。必ずそこに経営のヒントがある」とアドバイスしていたという。
 その現場重視の先にあるのが「ミラーボール経営」と流通重視の考え方だ。ミラーボールは周囲の光があってはじめて光り輝ける。企業経営も顧客や取引先、社員があってこそ成り立ち、光を放てる。したがって、主役は経営者ではなく社員であり、お客様だ。本心からそう信じているだけに、行動にもそれが表れた。日本航空の副社長時代から、正月は決まって成田の日航ホテルで迎えた。元旦に整備場で社員と新年の挨拶を交わすためだ。家族には「正月からラインに入って働く社員がいる。そんなときに家で酒を飲んでいるわけにはいかない」と語っていた。
 プライベートな旅行は、できるだけ鉄道を使った。空港に行けば、空港職員に無用の気を遣わせることになる。お客様に向かうべき気遣いが自分に向けられることなど論外、というのだ。
 旅行会社に対しても感謝の念を忘れなかった。日本航空の社長になってから、中堅旅行会社へ挨拶に行った際、部下にその旅行会社の社員数と同じだけの名刺を用意させた。相手先へ着くと、役員や管理職はもとより、平社員から新米の女子社員まで、訪問先の全社員と名刺交換し、握手を交わしたという。
 そんな気遣いの人、利光が「特に忘れられない大切な思い出」として家族によく話していたのは、1981年のローマ法王(ヨハネ・パウロ2世)随行フライトのことだという。

 ジャルパックの基礎を作る

 旅行業界と最も直接的にかかわったのは、旅行開発(現ジャルパック)の代表取締役専務時代だ。日本航空の販売促進課長として「ジャルパック」ブランドの立ち上げに加わり、1965年のジャルパック発売を見届けた後、66年にはメキシコ支店長として日本を離れる。そして69年に帰国すると、旅行開発に出向。代表権を持つ専務として実質的な経営トップを務める。当時「ジャルパック」は華々しくスタートを切ったものの、問題を抱えていた。というのも、当時の「ジャルパック」は大手旅行会社が持ち回りで幹事会社を務め、商品造成に当たっていたため品質も一定でなく、悪く言えば責任の所在がはっきりしない面も否定できなかった。このため利光は「ジャルパック」の造成と卸売りを一貫して手がける海外旅行の専門ホールセーラーとして、旅行開発の設立に尽力する。
 「旅行開発」という一風変わった社名も利光の発案だ。当時、日本航空が旅行子会社を持つことへの反発が強かったため、JAL色が薄く、なおかつ意味ある名称を考えた末、辿り着いた社名だ。各方面への配慮の結果、日本語としてぎこちない名称ともいえるが、欧文名の「Japan Creative Tours」には、新しい旅行商品をクリエイトしていくという強い思いが込められている。
 旅行開発に在籍したのは2年ほどに過ぎないが、この間、利光は今も受け継がれる“品質のジャルパック”の基礎を築く。品質管理におけるツアーコンダクター教育の重要性に着目し、業界初の本格的ツアーコンダクター養成に乗り出した。一方で、急増する海外旅行需要から、遠からずツアコン不足が深刻化すると見抜き、特に旅行客が多かったハワイではノンエスコート構想を打ち上げた。
 羽田空港までのセンディングさえ賄えば、搭乗手続きは日本航空の地上職員、機内では客室乗務員が対応できる。残る現地での受け入れ体制は、現地法人の設立で万全を期す。こう考え、1970年にはハワイ現地法人パシフィコ・クリエイティブ・サービスを設立する。こうしてノンエスコートツアーを実現することで、ツアーの毎日催行と経費の削減を両立させ、ジャルパックの販売は大きく拡大。同時に、ジャンボジェット機就航で大量販売が必要となった日本航空に、拡販の道筋を提示して見せた。
 ジャルパックが海外旅行業界の発展に果たした役割は限りなく大きい。ジャルパックの大量宣伝が市場を刺激し、その商品作りは同業他社の手本となった。その意味で利光松男は、海外パッケージツアーの基礎を築いた人物とも言えよう。これに異論のある業界人はいないはずだ。

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利光松男  Toshimitsu Matsuo
 1923年東京生まれ。1947年上智大学経済学部卒業。貿易会社の営業マンを経て51年日本航空に入社。主に旅客営業畑を歩み、61年メキシコ支店長として 現地赴任。69年に帰国し、旅行開発(現ジャルパック)代表取締役専務に就任。 71年日本航空営業本部国際旅客部長、75年アジア地区支配人兼香港支店長を経て、77年日本航空取締役、81年常務取締役に就く。85年6月日航商事社長に転出するも、12月には代表取締役副社長として日本航空に復帰。90年代表取締役社長就任。95年相談役に退き、99年から常任顧問、01年から名誉顧問。01年勲二等旭日重光章受章(上写真)。囲碁好きで、99年から04年まで日本棋院理事長も務める。04年11月逝去。






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生来の明るい人柄が経営にも生きた
(旅行先のスペイン・セゴビアで)





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労をいとわず“現場”へ出かけていく主義を貫いた
(MD-11型機のコクピット内で)






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マクドネル・ダグラス社からの「MD-11型機」
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