Tour2 of 第2回日本国際ツーリズム殿堂

 2008年度顕彰者の足跡 安西美津子


 トップランナー

 安西美津子のキャリアは「初めて」づくしだ。振り返れば、学窓を巣立つときからしてそうだった。1949年当時、在学していた日本女子専門学校が新学制により昭和女子大学と改称。初めて「女子大生」として社会に出た世代である。社会人となってからも、「前例がない」という壁をいくつも乗り越え、持ち前のバイタリティで新しい地平を切り開いてきた。
 日本交通公社(現JTB)に入社したのが1952年。5年ほど後には交通公社労組の婦人部に入って活動を始め、のちの育児休職制度導入へとつなげていく。当時の婦人部長は、今も親交が深い伊崎恭子(元JTB出版部)。副部長を安西が務めた。伊崎は交通公社が「初めて」大学新卒女子を採用した53年入社組。2人とも、まだ20代後半の若さである。「女性社員が長く勤められるよう制度を変えなければ、と意気軒昂だった」(伊崎)。
 入社後10年が経とうかという頃、安西は苦い体験をしている。意気軒昂が勢い余って、仕事を干されてしまったのだ。
 そのとき安西は定期券担当の主務者だったが、上司に呼ばれて別の担当の主務者に配置換えを命じられた。ここまでは当たり前の、よくある異動の話。ところが、その理由を上司はこう説明した。「(定期券の主務者になる)○○君は男だし、10年経ったから」と。安西は俄然、反発する。「私も10年経ってます。嫌です」。驚いた上司は説得に転じるが、それでも安西は何が何でも嫌だと言い張った。あとは売り言葉に買い言葉。「そんなこと言うんなら外すから」「外すなら外してください!」。
 で、本当に外されてしまった。出勤しても席がない。癪にさわるので、本社に行って
悪口を触れて回った。しかし、誰も同情はしてくれない。むしろ「それはあなたが悪い。謝りなさい」と言われる。結局、ある係長が自部署へ引き取ってくれることで一件落着したが、「この体験が後年、自分が上司の立場になったときに役立った」と安西は振り返る。
 67年、管理職に登用された(東京テレフォンサービスセンター所長)。新たに管理職研修を受ける15人のうち女性は安西だけ。3階建ての研修寮の3階に男性全員が宿泊し、1階全部を安西が1人で使った。トイレ・洗面所は専用。風呂だけは近所の銭湯へ行った。女性の管理職研修生は「初めて」で、社内でこれまで前例がなかったからだ。JTBで女性社員教育が本格的に行われるようになったのは、それから2年後のこと。安西がトップランナーを務めたことになる。

 初の女性支店長

 69年、安西は中央研修所の講師になる。37歳。これも同研修所「初めて」の女性講師である。もともと教育には興味があったし、10年近く前から希望して会社にアピールもしていた。「自分のことは自分の意志で決める」のが現在まで一貫する安西の流儀だ。「女性には(仕事上の)目標を持つことができない時代が長すぎた」との認識もあり、長いレンジの目標を立て、積極的に前へ出ると心に決めていた。
 また、それまでのキャリアから「人に教える立場になって、初めて仕事が見えてくる。後輩の指導をすることによって、人間は十人十色で、そうした人々を上手に組み合わせて仕事を進めるのが組織であるということに気が付くはず」(奥田健二編・日本労働研究機構刊「新時代の人材育成」から)、との思いが募っていた。じっさい、この中央研修所での講師経験は、のちに安西が旅行業の現場で管理職を務める際に大いに役立つこととなる。
 77年からの横浜支店旅行課長を経て、80年、安西はJTBで初の女性支店長(虎ノ門支店長)に就く。この間に、安西や前出の伊崎恭子が労組婦人部で取り組んできた育児休職制度が導入されている(73年)。成果はてきめんで、これを契機に女性社員の勤続年数は格段に延びた。2年後の75年、JTBの女性社員の平均勤続は5年の壁を破り、85年には9年10カ月まで延びている。
 84年、京橋支店長。スタッフ数70人をかかえる大所帯である。配下には男性の課長や係長もいる。彼らに言っていた安西の殺し文句は「(部下の)女の子をブスにしたらあなたの責任よ」。女性は気に入らない上司がいると、それがすぐに顔に出るからだ。「自分で一国一城を預かってみて思ったのは、(支店長の仕事は)ムードづくり以外に何もないということ。職場の皆が気持ちよく働ける雰囲気づくりだけ」と、のちに安西は述懐している(共著「新時代の人材育成」から)。
 日々の仕事上の接点はなかったが、プライベートを含めて50年来の親友である伊崎は、安西が「女性社員の駆け込み寺のような存在だったのではないか」と言う。「明るくて、声が大きくて、とにかく根アカ。めげない。体も丈夫でバイタリティがある。それに、けっこうオシャレなんですよ」と伊崎は安西の人柄を評する。
 一線を退いた今でも、安西の自筆の経歴書には「働く女性のアドバイザー」とある。「落語によく出てくる横丁のご隠居ってあるでしょ。あんなふうな相談役でいたいの」と言って安西は笑う。

 旅行業女性の会

 京橋支店長時代の85年に安西美津子の仕事ぶりは、働く日本女性の代表として米誌「ニューヨークタイムス」日曜版に大きく取り上げられている。折しも、男女雇用機会均等法をめぐる論議が活発さを増していた。85年4月の参議院社会労働委員会公聴会に安西は公述人の1人として招請され、新法成立に前向きな意見を堂々と述べている。同年6月、男女雇用機会均等法が公布。働く女性の地位向上に向けて、安西らが長く奮闘してきた成果とも言える。
 話は前後するが、虎ノ門支店長時代の1980年から安西は、もうひとつ重要な役割を引き受けている。日本旅行業女性の会JWTC=(当初の名称は日本旅行業婦人の会)の「初代」会長だ。当時、旅行関連業界ではすでに多くの女性たちがベテランとして第一線で活躍していたが、男性たちのようにゴルフコンペや○○会といった集まる場がない。「おかしいと思わない?」ということで、最初の会合を持ったのが80年1月。メンバー(順不同)は松井千枝子(ウェルパイン航空)、松木光江(東芝ツーリスト)、岸史子(日本航空)、倉光祥子(阪急交通社)、前田周子(東急観光)、飯沢順子(太平洋観光)、多田幸子(クラウンツアーズ)、鈴木光子(スイス政府観光局)の8人。大いに盛り上がり、3カ月後の4月に開いた2回目の会合に出席した安西美津子(JTB)、西鳥羽洋子(同)、三橋滋子(ツーリズムエッセンシャルズ)、福田和生(同)、本多一重(クラウンツアーズ)、小林良子(郵船航空)、岡本きはみ(エールフランス)の7人を加えた15人が発起人となって、同年11月に「日本旅行業婦人の会」が正式に発足した。発会パーティには兼松學JATA会長(当時)をはじめ労働省(同)や運輸省(同)から多数の来賓が臨席し、女性の会にふさわしい華やかな門出となった。
 旅行最大手JTBの支店長ということもあって安西が初代会長に決まり、翌年1月に第1会総会を開いたが、このときに会員数は90余人にふくれ上がっていた。そして迎えたのが、同会の活動のハイライトとも言える86年11月のIFWTO(国際旅行業女性の会)太平洋地区大会(於:京王プラザホテル)である。
 大会を前に、運営方法などをめぐって侃々諤々の議論が交わされたという。渦中にいた鈴木光子は「そもそも独立心の強い人ばかりで、それぞれの手法で仕事をやり遂げてきた自負もあるから、それは凄い議論だった」と振り返る。しかし、その激しさがのちの結束につながり、「とても良い友達同士になれた」とも言う。会長である安西は議論には加わるが、もっぱら調整役を引き受けていた。「どちらかと言うと一刀両断のタイプだと思うが、さすが男社会でもまれてきただけあって、みんなの意見を聞き、いったん呑み込んで、きちんと準備してから決断を下す」とは、鈴木の安西評だ。

 安西や鈴木らが礎を築いた「日本旅行業女性の会」は現在も活動しているが、先達の目から見ると「ちょっと活力が薄れているのが気になる」(安西)。「大過なく過ごすのではなく、波風を立てながら収める力を培ってほしい。仕事や地位は自ら勝ち取るものだから」(同)。鈴木も「近ごろの女性たちは危ないことをしない。その意味では男性サラリーマン化しているのかな」と言う。そして「もっと言いたいことをぶつけ合うほうがいいのでは」と口を揃える。「前例がない」壁を次々と打ち破ってきた先人ならではの実感である。

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安西美津子  Anzai Mitsuko
 1931年生まれ。昭和女子大学国文科卒業。52年日本交通公社(現JTB)入社。67年東京テレフォンサービスセンター所長、69年中央研修所講師、77年横浜支店旅行課長を経て、80年虎ノ門支店長、84年京橋支店長に就く。86年からは教育事業に傾注し、96年まで交通公社教育開発で開発担当部長などを務める。80~88年には日本旅行業女性の会初代会長に就くなど、一貫して働く女性の地位向上に努め、参院社会労働委公聴会など公の場やメディアを通じても積極的に発言を重ねてきた。著書に「働く女性の相談室」(生産性出版)、「新時代の人材育成」(日本労働研究機構)、「女性能力活用事例集」(女性職業財団)などがある。




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日本旅行業女性の会(JWTC)の仲間たちと
業界のパーティで(左から3人目)



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IFWTO太平洋地区大会で開会の挨拶
(1986年・東京)



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1985年2月24日付
「ニューヨークタイムス」誌面から




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海外での催しにもJWTCは積極的に参加した




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1986年の記念すべきIFWTO国際大会後の
懇親会で(前列右端)