Tour3 of 第2回日本国際ツーリズム殿堂

 2008年度顕彰者の足跡   松橋功


  「ルック」の立ち上げに全力

 まだ早稲田大学の学生だった20歳の頃。すでに松橋は日本交通公社(現JTB)で通訳案内ガイドとしてアルバイトを始めている。卒業後は日本交通公社に入社。旅行業界との縁は半世紀以上にわたり続くことになる。文字どおり、日本の旅行業界の発展に生涯を捧げてきた人である。
 入社後10年ほどした頃、松橋は旅行業界が次の時代へ大きく転換していく現場に立ち会うことになる。それまでは微々たる市場しか持たなかった海外旅行が、1964年の渡航自由化によって旅行会社の花形ビジネスへと躍り出る。その後の日本人の海外旅行の基本形となるパッケージツアーが導入され、航空会社系のパッケージブランドが誕生していく。そうしたなか、日本交通公社も海外パッケージツアーの商品化に取り組む。
 松橋はチームの一員としてこのプロジェクトに参加。68年の「ルック」誕生に力を尽くし、その後はルック係長として、誕生後間もないパッケージツアーを軌道に乗せることに全力を傾けた。「ルック」は今年(08年)10月、ツアー参加者累計2500万人目を成田空港から無事に送り出した。松橋らが草創期を支え、今や世界でも有数のパッケージブランドに成長したのである。

 ポスト・バブルの経営改革へ

 1980年代後半のバブル景気は、旅行業界にも大いに恩恵をもたらした。JTBも売上高1兆円を超え、松橋が社長に就任し初めて迎えた決算(91年3月期)では約1兆5000億円に達している。しかし、すぐにバブルは崩壊。また、91年1月に勃発した湾岸戦争により、旅行業界は一転して逆風にさらされることになる。JTBは92年3月期決算でも利益を伸ばすが、いずれバブル崩壊の余波が襲ってくるに違いない。そこで松橋は、バブル時代に蓄積した企業の水ぶくれ体質を筋肉質に変えるため、急きょ「改革2年計画」をまとめ、92年夏からこれをスタートさせた。
 通常は3年タームで立案されることが多い経営計画を2年間に短縮したのは、何より対応に迅速さが求められる経営環境にあったからだ。組織が大きくなるほど企業の動きが遅くなる宿命から脱し、スピードの重要性を社内に徹底する狙いもあった。
 改革のため避けて通れないコスト削減に関しても、明確なメッセージを発信した。コスト削減となれば士気は下がり、萎縮してしまいがちだ。松橋は社員に対し「コスト削減」とは言わず、「資産を取り崩せ」とハッパをかけた。コストとは、取り崩すことができる資産であるという理屈だ。言葉の遊びと言ってしまえばそれまでだが、人材が全ての旅行会社にとって、社員のモチベーションを奮い立たせることこそ大事いう、経営者としての信念の表れであった。
 同時に、顧客第一主義と現場第一主義の徹底を促した。92年にはCS推進運動をスタートさせ、サービス業の原点である“顧客第一”を改めて標榜する。そして、支店を中心とした“現場第一”を改革の柱のひとつに掲げ、とかく官僚的になりがちだった社内に新風を吹き込む。

 分社化への種蒔きとCI導入

 要職を歴任してきただけに、松橋にはJTBの弱点も見えていた。大企業が陥りがちな内向き志向や意思決定の遅さが蔓延すれば、JTBに将来はない。これを防いで、スピードと専門性を維持するには、分社化が最適と見極めた。
 松橋が構想した分社化は、その後の経営陣に引き継がれ、JTBは国内旅行事業における地域事業会社や機能特化型会社、海外旅行事業における方面別事業会社など160社以上を擁する企業グループへと進化していく。
 JTBは06年4月、グループ全体を15の事業会社群に分けた新グループ経営体制をスタートさせ、新経営体制の初の決算(07年3月期)では過去最高益をはじき出した。松橋が蒔いた分社化の種は、約10年を経て花開きつつある。
 常務時代に手がけたCI導入も、結果的に分社化で低下する求心力を補ううえで役立っている。88年にJTBは旅行業で初めてCI導入を果たし、日本交通公社からJTBへ呼称を変更。新しい経営理念とシンボルマークも発表していた。

「観光立国」の道筋を切り拓く

 社長職を退いてからは業界最大手JTBの会長として、またJATA(日本旅行業協会)会長として業界発展にエネルギーを注ぐことになる。01年の日本ツーリズム産業団体連合会(TIJ)の創設は、「観光産業界にも経団連をつくろう」との思いを共有する国土交通省観光部長の鷲頭誠、西武鉄道グループの堤義明、そして松橋功の強力なタッグにより実現したといっても過言ではない。当時は行政改革の中で公益法人も縮小していく方向にあり、TIJを社団法人として設立できたのは例外中の例外と驚く声も、霞ヶ関では少なからず上がっていたようだ。
 「成人の日」と「体育の日」を月曜日に指定して3連休を増やそうという改正祝日法が異例の速さで成立した背景にも、二階俊博運輸相(当時)と共に尽力した松橋の存在がある。政権政党である自民党への説明に松橋は何度も足を運び、3連休化の意義や経済効果について説明を重ねた。
 業界の危機には、JATA会長として迅速に動いた。9.11テロ事件後の02年2月には、冷え込んだ日米観光交流を復活させる官民一体のプロジェクトを発表。官民合同のミッションをハワイとニューヨークに派遣するというもので、主要旅行会社と航空会社2社の幹部が民間側メンバーとなった。さらに、ハワイとニューヨークに各1000人規模の官民合同使節団を送り込むプランも、松橋らが中心となってまとめ上げた。
 小泉純一郎首相による03年の「観光立国」宣言は、観光業界にとってエポックメーキングな出来事であり、これがのちの観光庁創設にもつながったことは周知のとおりだ。この「観光立国」宣言の土台となった調査報告のひとつが、02年にまとめられた「国家的課題としての観光~21世紀のわが国における使命と役割を考える」(日本経済調査協議会)で、180ページに及ぶ労作の中心的な役割を果たしたのが松橋である。同協議会調査専門委員会で松橋は委員長を務め、計14回に及ぶ会議を仕切る。そして、2年越しの議論の成果を「基本認識と10の提言」の形でとりまとめた。

 NAAでも「お客様が第一」主義

 04年4月、松橋は3つ目の大役を引き受ける。成田国際空港株式会社(NAA)の会長職である。「海外旅行」という共通点こそあるが、典型的な装置産業といえる空港ビジネスは旅行業とは全く異なる分野。そのうえ、民営化を軌道に乗せるという大仕事も求められる。それでも敢えて火中の栗を拾ったのは、海外旅行に欠かせない空港への“恩返し”の気持ちがあったのだろう。
 新東京国際空港公団は民営化されて、成田国際空港株式会社に生まれ変わった。松橋は会長として、すぐさま民営化を軌道に乗せるための取り組みを始める。NAAでの3年間を通じて松橋が第一に取り組んだのが、社員の意識改革だった。「利用客」という呼び方を「お客様」に改めることから始めた。旅行業における長年の経験から、サービスの現場では往々にして「言葉が精神を規定する」ことを知るからこその改革だった。そして、民営化を軌道に乗せるために欠かせないキーワードとして掲げたのが「お客様・お客様・お客様」「現場・現場・現場」「コスト・コスト・コスト」の3つだった。JTBの改革2年計画で掲げた考え方とオーバーラップしている。

 通訳ガイドのアルバイトから旅行業へ踏み出した松橋は、60年代初頭にロサンゼルス支店へ赴任。得意の英語を活かすインバウンドからキャリアをスタートしている。その松橋の尽力が、観光立国宣言やビジット・ジャパン・キャンペーンにつながった。日本の旅行産業が半世紀を経て再びインバウンドに注目するようになった道筋に、松橋の足跡がしっかりと刻まれている。

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松橋功  Matsuhashi Isao
 1933年東京に生まれる。早稲田大学第一商学部卒業。56年日本交通公社(現JTB)入社。76年人事部次長、77年新宿支店長を経て、79年から国内旅行部長。82年に取締役関西営業本部長となる。85年から常務取締役市場開発室長を経て、90年6月に代表取締役社長就任。96年代表取締役会長、02年取締役相談役(現在は相談役)。97年6月から02年6月まで日本旅行業協会(JATA)会長を務めた。04年4月から07年6月までは成田国際空港会社(NAA)取締役会長。98年フランス共和国よりレジオン・ドヌールシュヴァリエ勲章を受けている。




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年間の海外旅行者数1000万人を目指す
「テンミリオン計画」推進のパーティで




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JATA会長として祝日3連休化にも尽力した




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英国航空の新しいシートを試す
(JTB社長時代)




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ロンドンでトーマスクック社の社長と
(JTB社長時代)