Tour4 of 第2回日本国際ツーリズム殿堂

 2008年度顕彰者の足跡    森谷哲也


 国際化時代の到来を確信

 森谷哲也が事業家として歩んだ道筋は、海外渡航自由化(1964年)以来の業界発展史と呼応している。右肩上がりの上昇線を描き続ける海外旅行者数の推移は、森谷の軌跡そのものであった。
 64年、森谷は30歳で起業している。日本で初めての旅行業界紙「トラベルジャーナル」を創刊するためだ。56年に明治大商学部を卒業後、アメリカンエキスプレス・インターナショナル、名鉄航空サービスを経て、62年には外国人観光客向け情報誌を発行するジス・ウィーク・イン・トーキョー(のちのオータパブリケーションズ)に入社。このころ、すでに旅行業界紙創刊の構想をあたためていたらしい。米誌「トラベル・ウィークリー」を引き合いに出しては「こういうのを作りたいんだ」と言って目を輝かせていたという。
 明治大在学中はESS(English Speaking Society)での活動に情熱を傾け、旅行会社で駐日米軍の渡航業務などを手がけるうちに、国際化時代の到来と旅行業発展の予感はいよいよ確信に変わっていったのだろう。時期尚早との周囲の諫めを振り切って、森谷は「トラベルジャーナル」を創刊する。
 むろん、事業は当初から順風満帆だったわけではない。業界紙の生命線である広告は容易に集まらず、原稿料の支払いにすら事欠いた。そんな心許ない出帆ではあったが、創刊号を出した2週間後の6月30日には、旅行・航空関係者150人を集めて盛大に発刊披露パーティを開いている。これだけの人脈をすでに森谷が業界内に築いていたことに、驚きの声しきりだったという。
 創業2期目の65年11月期決算で森谷トラベル・エンタプライズ(のちにトラベルジャーナルと社名変更)は早くも黒字に転じている。以降は海外旅行ビジネスの急成長に伴って、購読部数・広告売上ともに伸び続け、専門メディアとしての地位を確かなものにしていく。68年には、在日外国政府観光機関(FGTO=現在のANTOR)が旅行業界の発展に大きく寄与した人物に贈る「Travel Man of the Year」を、森谷は受賞している。栄えある第1回受賞者であった。
 30代半ばにして押しも押されもせぬ起業家となった森谷は70年1月、強気に打って出る。それまで隔週刊であった「トラベルジャーナル」を週刊にしようというのだ。創刊時と同じく、ここでも先行きを危ぶむ声が上がった。しかし、森谷には自信があった。先見性と決断の速さ、そして実行力は森谷の身上である。ジャンボ機の就航で大量送客時代が訪れ、旅行業界は必ず大きく飛躍すると読み、敢然と週刊化に踏み切った。

 教育事業にも情熱傾ける

 森谷の読みは的中した。ABC協会(新聞雑誌部数公査機構)調査で70年に2703部だった「週刊トラベルジャーナル」の有償購読部数は、71年3319部、72年4158部、73年5203部と急伸。当然ながら、広告売上の拡大も付いてきた。
 こうして週刊化が軌道に乗ると、森谷は新たな事業分野への進出を画す。教育事業である。旅行業界の規模が膨らむなかで、人材の育成と確保が急務となっていた。そこで着想を得たのが、旅行専門学校の設立。まず、学校運営の母体となるトラベルジャーナル教育システムを73年9月に立ち上げ、74年春には「トラベルジャーナル旅行学院」として昼間部117人、夜間部161人の第1期生を迎え入れている。
 時流を読み、時流に乗る巧さは、森谷に与えられた天賦の才であろう。専門学校経営はトラベルジャーナル・グループの第二の柱となるまでに成長し、80年3月には学校法人の認可を得て「トラベルジャーナル旅行専門学校」と改称。同年7月、大阪にも同校が開設された。
 機を見るに敏というだけでなく、それを下支えするものとして、森谷にはつねに「感謝の念」があった。世話になった人々、そして自分を育ててくれた旅行業界への恩義である。旅行専門学校が開校した74年はちょうどトラベルジャーナル紙の創刊10周年に当たり、人材育成を通じて業界に恩返しする気持ちが根底にあったことは間違いない。
 「業界のために」が森谷の口癖だった。社員への訓示でも必ずこのフレーズが口をついて出た。「業界への貢献」と「業界の発展」こそが、森谷が一貫して、本気で考え続けた命題である。とりわけ、日本の旅行業界の国際化には心を砕き、努力を惜しまなかった。世界への扉を開いたとも言える、77年の第1回日本・国際観光会議(JATAコングレス)開催の裏には森谷の尽力があった。PATA(太平洋観光協会)での長年にわたる積極的な活動は、我が国の旅行業の国際的プレゼンスを高めた。いわば“日本の顔”としての活躍であり、94年には同協会から「特別個人賞」の表彰を受けている。

 積年の夢「世界旅行博」開催

 功成り名を遂げてからも、森谷には実現させたい大きな夢があった。業界挙げての旅の国際見本市である。75年、41歳のときに初めて見た「ITBベルリン」の盛況ぶりにいたく感激し、いつかは同様のイベントを日本でも開催したいと、ひそかに構想を練っていたのだった。
 その夢の具現化が、84年12月に東京・池袋のサンシャイン・シティで開催された「世界旅行博」である。森谷が運営の先頭に立って東奔西走し、40カ国・地域の政府観光機関、120企業が参画。入場者は6万8000人を数えるビッグイベントとなった。03年からはJATAコングレスと統合され、「JATA国際観光会議・世界旅行博」として毎年恒例の国際イベントに定着しているのは周知の通りである。
 そもそも森谷は人集めが大好きだった。人集めの名人でもあった。輪になって人と語り合うのを無上の楽しみとしていた。だから、森谷のアイデアや音頭取りで立ち上がった業界内の集まりは枚挙にいとまがない。航空会社の広報担当者が集まる「叡智会」は森谷が発案者。ホールセーラーの第一線スタッフが情報交換する「ゼロの会」も同様。明治大の大先輩でもある亀田重雄(日本航空元専務、故人)を囲む「亀の子会」は、利光松男(日本航空元社長、故人)が発案し、森谷が音頭を取った。ほかに、昭和ヒトケタ生まれの集まり「五九六三(ごくろうさん)会」をはじめ、森谷が中心となった親睦会も数多い。
 一方、旅行業界のモチベーションを高める顕彰制度の創設にも熱心に取り組んだ。94年創設の「ツアー・オブ・ザ・イヤー」は、商品造成に優れた企画力を発揮した旅行会社を表彰し、業界全体の創造力を高めていこうという狙いだ。90年代後半には、次代を担う旅行業経営者・幹部の育成を目指して「旅行産業経営塾」も立ち上げている。

 “第二の創業”を見届けて

 21世紀を迎えると、森谷は長男・博に社業をバトンタッチする。トラベルジャーナル誌の発行人と、トラベルジャーナル・グループ代表としての立場は残したものの、自らの関心はむしろ新たな「業界貢献」へと向けられていたようだ。
 「日本国際ツーリズム殿堂」の創設(04年)も、そのひとつである。産業全体が沈滞気味のこの時期に、何とか活力を取り戻す契機を与えたいとの思いが強くあったのだろう。また、旅行関連業界の先輩と後輩が寄り集まり、フランクに語り合えるサロン的な場を設けたいというのが森谷の長年の夢であり、「ツーリズム殿堂」にはその思いも込められている。
 新しい世紀に入って、森谷は時代の変化を敏感に感じ取っていた。なかなか変革を図れない旅行業界の現状と未来を憂慮してもいた。何とか業界を活性化させたい。そのためには、自分がもう一肌脱がねばならない。そして、自らの事業も新たに脱皮していく必要がある。そうした決意の表れが、学校法人森谷学園の校名変更である。実は90年代から森谷学園は学科の多角化を推し進め、時代の変化に対応してきていた。その総仕上げが、ホスピタリティ ツーリズム専門学校(学校法人トラベルジャーナル学園)への校名変更だった。
 「変化を恐れない」のが、経営者・森谷哲也の行動指針である。創刊以来こだわり続けた「トラベルジャーナル」の誌面サイズ(B4判)も、95年の誌面刷新時にA4判への変更を以外にあっさりと認めている。校名変更に際しても同様で、当時、トラベルジャーナル誌上でのインタビューで次のように語っている。
 「学校法人とは、私学であってもプライベートなものではなく、パブリックであるべきというのが私の持論。トラベルジャーナル・グループが長年にわたり築き上げてきたものは、森谷個人よりも重い。法人名の変更はそのような考えに基づく、いわば“第二の創業”なのです」
 07年4月、第二の創業を見届けて森谷哲也は73年余の生涯を終えた。海外旅行の高度成長期という未曾有の時代が生んだ、希有な人物であった。 

*本稿はトラベルジャーナル編『初心忘れず 森谷哲也の航跡』を資料としました。

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森谷哲也  Moritani Tetsuya
 1933年鳥取県米子市に生まれる。明治大学商学部卒業。56年アメリカンエキスプレス・インターナショナル入社。その後、名鉄航空サービス、出版社ジス・ウィーク・イン・トーキョーを経て、64年に森谷トラベル・エンタプライズを設立し、日本初の旅行業界紙「トラベルジャーナル」創刊。73年トラベルジャーナル旅行学院の設立を皮切りに、教育事業にも力を注いだ。世界旅行博(84年初開催)や日本国際ツーリズム殿堂(04年創設)の発案者・発起人でもある。PATA(太平洋観光協会)本部役員(95~01年)をはじめ国際舞台での活躍も多い。95年教育関係功労者表彰(文部大臣)、96年ガバリエール勲章(イタリア政府)、97年観光関係功労賞(運輸大臣)を受けている。07年4月逝去。



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功成り名を遂げた業界内の友人たちと夫婦同伴で
(向かって右隣が俊子夫人)


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カメラを手にどこへでも。
このフットワークの軽さも身上


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在日外国政府観光機関から
「Travel Man of the Year」の表彰を受ける(68年)



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創刊3年目で早くも“世界の四大旅行業界誌”に




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94年にはPATAの「特別個人賞」を受賞




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第1回「世界旅行博」(84年)の
オープニングセレモニーで