Tour5 of 第2回日本国際ツーリズム殿堂

 2008年度顕彰者の足跡   中西成忠


 日本人の感覚に合う旅づくりを

 日本がIMF(国際通貨基金)8条国に移行し、1人年1回500ドルまでという外貨持ち出しの制限付きながら、海外旅行が実質的に自由化された1964年。日本人にとって海外旅行元年とも言うべきこの年、隆盛を極めていた世界的な旅行会社トーマスクックのロンドン本社で初めての日本人として採用されたのが中西成忠だった。
 中西は2003年3月に発行されたミキ・ツーリスト『35年の歩み』の中で、「ロンドン在住日本人のお世話役と、ポツリポツリと動き始めた日本からヨーロッパへの団体の旅作りに対応するための要員でした」と入社当時を回想している。海外旅行の自由化直後、日本からのツアーは1カ月間に及ぶ長旅も珍しくなく、ヨーロッパ各地を回ってロンドンに着いたツアーの添乗員は、イギリス人の上司と中西に対して「大変素晴らしい手配で、問題なくここまで来ることができました」と感謝の言葉を口にするのが常だったという。
 しかし、外国人の上司が帰り、中西と二人だけになると、添乗員の嘆きが始まる。そのほとんどは、ホテルのクォリティの問題や手配ミスなどではなく、各地で出される西洋料理に辟易しディナーをキャンセルしてでも和食や中国料理が食べたいという日本人旅行者のために、日本料理店や中国料理店を探してかけずり回った苦労話だったり、現地ガイドの通訳の拙さに困り果てたという愚痴だった。
 中西は手配の内容を検討してもらおうと、改めてイギリス人の上司に話をもちかけるが、「君も聞いていたとおり、手配に大変感謝していたではないか」と相手にされない。日本人添乗員とイギリス人上司の狭間に立たされ、中西は「どうしても、日本人の感覚で楽しんでもらえる旅作りをしたい」という思いを募らせる。
 トーマスクック入社から3年後の1967年、中西は自らの手で旅を作り上げるため、ロンドンに事務所を開設、ツアーオペレーターとしての第一歩を踏み出した。ミキ・ツーリストの誕生である。

 一貫して「旅の感動をお客様に」

 「(ミキ・ツーリストを)設立した年に75グループ4200人、2年目に150グループ9000人を手配しました」。週刊トラベルジャーナル誌の「ツアーオペレーター特集'93」に掲載されたインタビューで、創業当初を中西はこう振り返っている。
 「ホテルにチェックインする時、事前に出したリストどおりのホテルだと、エスコートの人が『えっ、リストどおりじゃないか!』と驚いたくらいです。当時の外資系のランドオペレーションではホテルの変更など日常茶飯事。旅程の中で半分くらいは平気でホテルを変えていたわけです」
 「ヨーロッパの旅行業界にあっては、全く信頼の基盤を持たないスタートでした。生まれたばかりの会社を信頼して手配を託して下さった日本の旅行業界の方々のおかげで、徐々に仕事をいただけることとなりました」と、前出ミキ・ツーリスト『35年の歩み』には記している。
 創業から35年を経ても「初めていただいたツアーを手配した喜びが今も鮮明に心に残っています」と“初心”を忘れることのなかった中西は、ツアーオペレーターとしてマーケットとデスティネーションの間に立つ、という意識をつねに持っていた。そして、商習慣や消費行動の違いなどで日本と現地との間に生じる軋轢を和らげるべく、クッションとしての役割を担う、との自負と矜恃を堅持し続けた。
 中西を長年にわたって公私両面で支えてきたルツ子夫人は、中西の他界後もその自負と矜恃を実感させられる場面に遭遇している。パーティで会話を交わした複数の旅行業界人が、「中西さんから『あんなツアーの内容でお客様が喜ぶと思いますか』と叱られたことが忘れられません」と異口同音に思い出を語ってくれたというのだ。
 旅行会社から手配を依頼される立場であっても、「旅の感動をお客様と共有したい」との思いが中西の仕事の原点にあった。だから、メーカーの論理が優先され、消費者不在としか言いようのないツアーは許し難いものであり、たとえ受注側であろうとも苦言を呈さずにはいられなかったに違いない。

 旅行会社との対等な関係目指す

 ツアーオペレーターの業界団体である日本海外ツアーオペレーター協会(OTOA)が社団法人となる前の1980年代、2期にわたって中西は会長を務めている。ここで中西がもっぱら目指したのは、旅行会社とツアーオペレーターの対等で発展的な関係の確立だ。
 週刊トラベルジャーナル誌の臨時増刊号「日本人の海外旅行35年」(99年8月30日発行)の中で中西は「文書化された契約書もなく、責任の重い請負仕事を託されている状況は、双方にとって不安定」であり、「そこで旅行会社とツアーオペレーターとの間の海外地上手配基本契約書の作成を推進した」と振り返っている。
 中西自身が「暗中模索で作り上げた」と言う契約書は当初、日本の旅行会社から簡単には受け入れられなかった。しかし、努力の甲斐あって、その後は当たり前のように取り交わされるようになる。ツアーオペレーターと旅行会社の双方にとって、それは間違いなく大きな前進であった。
 また、航空座席やホテル客室などの旅行素材を買い取り、在庫を保有したうえで旅行商品を造成するというメーカー本来の形になっていない日本の海外旅行業界に向ける中西の視線には、自らの欧州での経験も踏まえて、極めて厳しいものがあった。
 「集客後、はじめて素材を仕入れ、商品化するというリスクをとらない造成手法を今もって続け」「代替ホテルをいくつも用意し、その範囲内であるならばそれでよしとする苦しい言い訳を許してもらっている」(『35年の歩み』)と中西が指摘した状況は、現在も変わっていない。「現地に密着しているツアーオペレーターと市場に直面している旅行業者がより密接なチームワークを組み、独自性や専門性を生かして、無駄を省いた素材仕入れの方策と商品造成工程を構築し、旅行需要の創造・拡大に専念しなければならない時代に差し掛かっている」(同)と中西が訴えたのは、今から5年以上も前のことだ。

 「やりがいのある時代」の到来

 中西の先見性は、アウトバウンド市場だけにとどまらない。小泉内閣が「観光立国」を国の政策として推進する方針を打ち出す以前に、すでに中西は「日本において旅行産業が21世紀の基幹産業となるためには、2ウェイでバランスよく発展していく事が必須条件だろう」(週刊トラベルジャーナル臨時増刊号「日本人の海外旅行35年」)と強調している。
 中西は日本の国際化に海外旅行業が果たしてきた役割の大きさを踏まえつつも、「アウトバウンドが年間1600万人に達しているのに対し、インバウンド400万人はいかにもアンバランス」「その大半がアジアからの旅行者であり、ディズニーランドとハウステンボスの見学だけでは悲しい。もっと日本には理解してもらうべき古来からの文化が存在するのに」と嘆いた。そして「私は、外の世界を日本人に見てもらうための役割を演じてきた側の人間だが、まだまだ変化に対応していかねばならない日本の国の将来や旅行産業の発展を考えると、やはり双方向の大切さを強調せざるを得ない」と述べている。
 世界平和への貢献もまた、中西の大きな関心事だった。01年9月の米国同時多発テロ事件を経験した旅行業界は、いかに脆弱な基盤の上に成り立つ産業であるかということを思い知らされる一方、世界平和の大切さについて改めて認識を深めさせられた。
 中西はミキ・ツーリスト『35年の歩み』で、「旅行をすることにより世界のどんな国にも平和を願う善良な市民がいること、それを皮膚感覚で知るだけでも、世界が背負ってきた負の遺産を乗り越え、平和の方向へ向かうことに少しでも貢献できるのではないでしょうか」と問いかけている。
 業界内外の環境が厳しさを増すなか、むしろ「やりがいのある時代到来と受け止めたい」と決意を示した中西成忠。その遺志を引き継ぎ「やりがいのある時代」を現実のものとすることは、ミキ・ツーリストにとどまらず、旅行業界全体の課題でもあるはずだ。

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中西成忠  Nakanishi Shigetada
 1938年生まれ。神戸商科大学卒業。トーマスクック社勤務を経て、67年ロンドンでミキ・ツーリストを設立。我が国におけるツアーオペレーターの草分けとして、海外旅行業務のシステム化、効率化、低廉化を推し進め、海外旅行の普及に大きく貢献した。80年代には日本海外ツアーオペレーター協会(OTOA)会長を2期務め、旅行会社とツアーオペレーターの対等で発展的な関係の確立を目指し尽力した。旧ユーゴスラビア、ギリシャ、オーストリア、イタリアから叙勲、99年にはフランス政府から国家功労賞オフィシエを受けている。2006年12月逝去。




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海外での交友も幅広い。
オーストリアで行われたチャリティコンペ
(プロアマ競技)でホールインワンを達成し、
プロゴルファーのクレイグ・スタドラー氏から
祝福を受ける




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共に働く社員たちとの交流をとても大切に、
そして楽しみにしていた




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99年には仏政府から国家功労勲章を受けた
(祝賀の集いでルツ子夫人と)




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ミキ・ツーリスト設立に賛同してくれた
トーマスクック社の同僚と
(創業の頃)